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「頑張らない生き方」の大切さとは?疲れたときに思い出したい3つのこと

本来、「頑張る」とは、主観的なものです。

「ここから、ここまでが『頑張る』です!」という明確な基準は存在しません。

あくまで、「自分の基準から見てどうか?」という問題であって、「他人の基準から見てどうか?」という問題ではないのです。

今回は以下の3つのポイントを通して、「『頑張らない生き方』の大切さ」について考えていきます。

「頑張る=努力」は間違い

「頑張る」と「努力」の違いとは?

まずは、「頑張る」と「努力」という2つの言葉の定義からはっきりさせておきましょう。

——頑張る(読み)ガンバル

  1. あることをなしとげようと、困難に耐えて努力する。
  2. 自分の意見を強く押し通す。我を張る。
  3. ある場所を占めて、動こうとしない。

大辞林 第三版

実は「頑張る」は当て字で、「を張る」「がんを張る」が転じたものです。

何かを成し遂げるために、を突き通す」——「動じない」「動かない」「変わらない」「耐える」——というニュアンスが強い印象ですね。

——努力(読み)どりょく

心をこめて事にあたること。骨を折って事の実行につとめること。つとめはげむこと。

大辞林 第三版

努力とは、「何かを成し遂げるために、力を尽くして励む」ことです。目標があり、方法論があり、行動してこそ、「努力」と言えます。

「目標に近づくための方法論と行動」が努力なのであって、汗水を垂らして「頑張る」だけが「努力」ではないのです。

現代社会における「頑張る」とは?

現代の日本社会においては、その人が「頑張っているか、否か?」が評価の基準として確立してしまっているのが現状です。

「あれ? でも待って。本来、『頑張る』は主観的なものだよね? じゃあ、どうやって他の人が『頑張っているか』を判断しているの?」

「他の人が頑張っているか、どうか?」の判断基準としては、大きく以下の2つに分類できると考えられます。

「頑張り」の2つの評価基準

  • 結果の良し悪しによる「頑張り」
  • 心身への総ダメージ量による「頑張り」

結果の良し悪しによる「頑張り」

「評価に値する結果を出したか、どうか?」によって決定する、「結果を出した人はきっと頑張ったのだろう」という固着観念から来る「頑張り」です。

「結果を出しているから、その人は"頑張っている"のだろう」
「結果を出していないから、その人は"頑張っていない"のだろう」

結果の良し悪しによってその人の頑張りポイントが左右されるという、因果律もびっくりの評価基準と言えます。

心身への総ダメージ量による「頑張り」

「身を粉にして考え、行動したか?」によって決定する、「心身にダメージが見られる人はきっと頑張ったのだろう」という固着観念から来る「頑張り」です。

「心身にダメージが見られるので、その人は"頑張った"のだろう」
「心身にダメージが見られないので、その人は"頑張っていない"のだろう」

心身へのダメージというのも、「評価する人間からしてダメージがあるように見えるか、どうか?」によって決定されます。

つまり、疲れているフリをしている人間が『お前は頑張った』と評価され、本当に疲れている人間が『お前は頑張っていない』と評価されるという矛盾が起きる可能性も十分にあり得るのです。

評価する人間の主観観測に基づく「心身への総ダメージ量」によってその人の頑張りポイントが左右されるという、設定ガバガバ、運営なにやってんのレベルの評価基準と言えます。

戦わなくても「経験値」は手に入る

「頑張れ」は「もっと傷つけ」を優しく言った言葉でもある

「『結果の良し悪し』と『(観測者の主観による)心身への総ダメージ量』によって個人の『頑張り』が決定される社会」において、「『頑張れ』は、ある種労働の強要』とも言えます。

「お前は、もっと頑張れ(もっと傷ついて、もっと苦しめば、俺は"頑張った"と認めてやってもいいぞ)」

当人が疲れていようが、疲れていなかろうが結果につながれば「あいつは頑張った」と評価されます。

結果を出していようが、出していまいが、評価する人間からして「心身へのダメージが大きい」と判断されれば、「あいつは頑張った」と評価されるのです。

問題なのは、ここです。

「心身へのダメージが大きい=あいつは頑張った=心身への総ダメージ量が評価の高低につながる

こうなってしまうと、「ダメージをたくさん受けた人間が評価される」こととなり、「たくさん傷ついた者が"頑張った"」ことになります。

以後、評価を得るために「誰が一番傷ついた——フリをできる——か、合戦」に発展することは明らかでしょう。

その癖、本当に助けを——評価を求めている人間には、すでに手遅れの状態になってから「あいつは頑張っていたんだな……」と言うのですから、これではあんまりですよね。

何も、「結果を重要視しなくていい」と言いたいわけではなくて、「『頑張る』という言葉の定義が曖昧なものだからこそ、「『頑張ること』と『結果を出すこと』は分けて考えるべき」ということです。

結果を出せていない言い訳に「頑張る(これだけダメージを負ったから、いいか)」を持ち出して逃げることは問題と言えますし、頑張ったからと言って結果が出るとも、成功できるとも限りません。

そして、そもそも「誰かのため、会社のために『頑張る』」という文章自体に誤りがあるので、この場合は「頑張らない生き方」を選択することが正解になります。

「傷ついた分だけ、強くなる」は本当か?

「傷ついた分だけ、強くなる」はある意味では真実だとは思いますが、傷ついたからと言って、強くなる——前に進めるかは別の問題です。

ダメージの許容量には個人差がありますし、そもそも、ダメージ値がそのまま経験値になるとは限らないですからね。

RPGにたとえて、それぞれの言葉を以下のように置き換えてみるとわかりやすいでしょうか。

RPGの世界 現実世界
HP(ヒットポイント) 体力
MP(マジックポイント) 精神力
EXP(エクスペリエンスポイント) 経験値
レベル -

現実とRPGの世界の違うところは、現実世界では「精神力がゼロになってもゲームオーバー」ということですね。

また、レベルといった概念もなく、そこにはただ「経験値の多少」が存在しているだけです。

RPGでは、敵との戦闘を繰り返し、経験値を積み、お金を稼ぎ、レベルを上げたり、装備を整えたりして、さらなる強敵との戦いに挑みます。

これも、現実世界となると、違う。

どうしても「心身への総ダメージ量が評価の高低」となる現代の日本社会においては、

戦わなければ、強くなれない(ダメージを受けなければ、経験値は手に入らない)

といった考えが「一般的な努力の形」として見受けられる場合が多いように感じます。

でも、実は、戦わなくても「経験値」は手に入るものなんですよね。

傷つかなくても、傷つけなくても、強くはなれる。ちょっと、ここで『UNDERTALE』というRPGを例に挙げて考えてみます。

『UNDERTALE』に学ぶ「頑張らない生き方」とは?

『UNDERTALE』は、「誰も死ななくていい優しいRPG」です。

「マップ上のパズルや仕掛けを解いて、道中で出会った敵やボスと戦う」という一般的なRPGであるものの、

「In this RPG, you don’t have to kill anyone.(訳:このRPGでは、あなたはだれもころさなくてもよい)」

と公式サイトに書いてあるように、プレイヤーの選択次第で「すべての敵と和解」したり、「すべてのボスと友達になれる」んですよね。

目的(エンディング)を達成するために、誰も傷つける必要はないし、自分が傷つく必要もないのです。

たしかに、敵を倒さないとレベルを上げるための経験値は手に入りません。

でも、敵を倒さなくても、誰とも戦わなくてもエンディングにはたどり着ける——そういった方法があるということを学ぶことはできます。

「人生における経験値は、傷つき、傷つけることだけで得られるものではない」ということですね。方法は、もっとたくさんある。

「頑張らない」は「頑張る」よりも難しい生き方

「頑張らない」を頑張ることの大切さ

本来、自分の中にある基準によって決定、評価するはずの「頑張る」が、他人の中にある基準によって決定、評価されるものになってしまっている以上、「自分は頑張った」という言葉にでさえ、他人や世間の意思が入り込んでくる余地が生まれてしまうのです。

つまり、他人や世間から求められるように考え、行動することを「頑張っている」としてしまうと、しんどいのは当然ということです。

  • 無理をすることを「頑張る」とは言わない
  • 誰かを傷つけること、自分が傷つくことを「頑張る」とは言わない
  • 他人や世間から求められるように考え、行動することを「頑張る」とは言わない

もし、他人を傷つけることや他人によって傷つけられることを承知する、または強要されることを「頑張る」と言うのなら、そんなものは捨ててしまって構いません。

「頑張る」とはすなわち、「他人よりも自分の気持ちを優先し、それによって起こりうる周りの変化や流れを受け止める覚悟を持つこと」です。

「頑張る」はあくまで自分が持つための武器であって、誰かを傷つけるための凶器ではないんですよね。

「頑張らない生き方」は楽ではないが、楽しい道ではある

世間一般で言うところの「頑張る」を「頑張らない」のは、はっきり言って難しいことかもしれません。

それまで、「他人や会社、世間を喜ばせること=『頑張る』」だったものが、「自分を喜ばせること=『頑張る』」になるわけですから。

自分を取り巻く環境や周囲の人間の反応に変化が起きてくることは必然でしょうし、自分の感情やすべての出来事に対してこれまでにはなかった責任も出てくるでしょう。

たしかに、「頑張らない生き方」は「(世間で言われる)頑張る生き方」に比べて楽ではない道なのかもしれませんが、それでも「楽しい道」だとは言えるのではないでしょうか?

まとめ

正直に言って、人類は皆平等ではないですし、与えられるカードもバラバラです。

生まれてからの環境や境遇によって、人間として与えられる当然の権利さえ持つことを許されない場合もあります。

だからこそ、「頑張る」——英語で言う「Do my best.(最善を尽くす)」や「Try my best.(とりあえずやってみる)」という概念に価値があるのではないでしょうか。

「頑張る」という言葉は、主観的な––いかなる人種や国籍、性的指向、宗教、価値観にも左右されず、決定し、評価することができる——言葉だからこそ、「いい言葉」なのです。

一般的に「価値の証明」が有効となるのは「数字が重要なとき」なので、本来ならば「自分の価値」や「頑張っているか、どうか」の判断基準は、常に自分の内側にあるものなんですよね。

この辺りの話は、別記事『自分の価値は他人が決めるもの?周りの人が求める「自分らしさ」なんてどうでもいい』でもまとめているので、ぜひ参考にしてみてください。

自分の価値は他人が決めるもの?周りの人が求める「自分らしさ」なんてどうでもいい

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