人生をひとつの物語として捉えること。
この考え方は時に残酷な結果を招くことになるんじゃないかな、と思う余寒の黄昏時です。
近頃やけに身の回りで、生死観について考えさせられるような出来事ばかりでして。
僕が人生において迷走してるだとか、哲学に熱中しているだとか、そんなことはないんですが……。
ただほら、季節柄もあるんでしょうか——、寒い時期ってよく生き物が死んでしまうじゃないですか。
統計上はどうなっているのかわかりませんが、少なくとも僕にとっては「冬=死の季節」みたいなイメージが少なからずあるんですよね。
普段から生きるとか、死ぬとかそんなことばかり考えて過ごしているわけではないです。
そういう作品や言葉に触れることが、この冬はたまたま多かっただけで。
たまにはこういうことを考えてみるのもいいのかな、と。そんな気持ちになったのはすべて『草の竪琴』のせいです。
人生はひとつのストーリーである、という残酷な考え方
生まれて、死ぬ。これはもうどうしようもなく変えようがない、人生の出発点と終着点。
一度でも発車してしまったら二度と前の駅には戻れない、いわば片道切符の超暴走列車と言ってもいい。
そんな「生まれてから死ぬまで」をひとつのストーリーとして捉えること、それは時として残酷な結果を招くんじゃないかな、とふと思ってしまったわけです。
物語はたいてい喜劇か悲劇に行き着くもの
物語ってのはたいてい、ハッピーエンドかバッドエンドに行き着くわけじゃないですか?
つまり自分の人生においても、それは勝手に決まってしまうわけです。もしかすると、それを自分自身で決めなくちゃならないときだってあるかもしれません。
結果だけに着目するなら、みんないずれ死ぬので「バッドエンド」になっちゃいます。
人生をハッピーエンドにしたいのであれば、必然的にこれまでの軌跡、過程に着目することしか残された道はないんですよね。
人生いいことばかりじゃない
じゃあどうハッピーエンドを決めるのかって言うと、これまでの人生での幸せな記憶、これしかないです。
ただし自分が幸せだと思えた瞬間の「数」じゃなくて、「深さ」なんじゃないでしょうかね。
誰でも幸せな記憶が多いわけではないし、きっと多くの人は辛いとか苦しいとか、そういう負の記憶のほうが数的には勝っていると思うんですよ。
ハッピーエンドが幸せの「数」で決まっちゃったら、そういう人みんなバッドエンドになっちゃうじゃないですか。それは違うと思うんです。
「揺れ動く自分を見つめるためにも、人は生死について思いを馳せる必要がある。(ペルソナ3)」
消したい過去はひとつぐらいあるもの
目を背けたくなるような過去の記憶なんて、誰にだってひとつぐらいあるものなんじゃないでしょうか?人生の汚点と言い換えてもいいです。
それでも過ぎ去った時間は二度と帰ってこないし、精算しようにも叶わないことだってある。そりゃ忘れられれば楽だし、治る傷ならはやく治ってほしい。
そうは言っても、中には忘れられない記憶もあるし、一生残ってしまう傷だってあるわけです。時として墓場まで持ってかなきゃならんことだってあるでしょう。
そんな大層なものを抱えている人に向かって、
「ああ、そいつはしょうがない。だが君は幸せにならなくちゃあならないんだ。がんばれ」
とだけ言っても何も響くはずがないんですよね。すでに治らない傷がついてしまっているのだから。過去が変わることはないです。
嫌な思い出を思い出すとき
悪い記憶ってものはなかなか消えてはくれないもので、いかに今が幸せであろうと、ふとした瞬間に思い出してしまうものなんですよ。
部屋で一人ぼーっとしているときとか、夜空を眺めながら歩いているときとか——。
幸せで仕方ないときですら、何の脈絡もなくそれは突然襲ってくるわけでして。
それを「人生はひとつのストーリーだから、過去に何があろうとこれから幸せに生きていかなくちゃならない」だなんて思おうものなら、それってなんていうか悲劇じゃないですか?
失敗続きで苦しんでいたのなら、きっとこれから自分は何をやってもダメなんだろう、不幸せになるんだろう、って思っちゃいますし、
不幸に見舞われる回数が多かったのなら、きっとこれから自分は何をやっても不幸な結果に終わってしまうんだろう、って思っちゃう。
生きていくのはとても怖いこと
先日Nintendo Switchで『夜廻と深夜廻』っていうホラーゲームをやってたんですが、その中でこんな言葉があったんですよね。
そう。生きていくのって、とっても怖いことなんですよ。
どこで誰と出会うか、別れるか、そんな未来のことなんて誰にもわかりません。
それでも前に進んでいかなきゃあ、ならない。それはわかってる。
才能がないと生きる価値がないのか?
「過去ときちんと向き合って、そこから教訓を得て、これからの人生を幸せにする」
これはまぁ、正論です。人間は歴史からしか学ぶことはできないですからね。
とは言ってもそれができるのは強い人だけだと思うんですよ。自分の過ちを真摯に受け止めて、将来に活かそう、と強く決意できるのは。
どれだけ努力しても、がんばっても、目の前に立ちはだかる困難にひたすら耐え続けたとしても。
超えられない壁にはいつか突き当たるし、いくら必死にもがいたところで変えようがないことはたくさんあります。
才能だとか、環境だとか、境遇だとか、性別だとか、過去の記憶だとか。
そういったものをまるっとまとめて、これが自分なんだ、人生なんだ、と認めて生きることができるのはとても強い人間だと思うのですよ。
何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない
「人生はひとつのストーリーである」という考え方は、必ずしも万人に当てはまるものではないです。
前を向いて生きることだけが人生の幸せじゃない。過去から目を背けて、逃げ続けることだけが救いじゃないんですよ。
やっぱり過去と向き合う日はいつか来てしまうだろうし、どれだけひた隠しにしようともいずれ日の目を見る時がやってきます。
それをそっくりそのまま受け止めよう、ってのはそうそう誰にでもできるものではありません。
だから「人生をひとつのストーリー」として捉えるのではなく、
そういった辛いこと、苦しいことをひとつの物語にして「人生をいくつものストーリー」として捉えちゃう。
これだって楽じゃないです。楽じゃないけど、そのままデカい過去をまとめて背負うよりかは幾分かマシなんじゃないでしょうかね。
「何のために意味なんか求めるんだ?人生は願望だ、意味じゃない(チャーリー・チャップリン)」
過去の記憶を選び取る
過去は過去、現在は現在、未来は未来。これは変えようがない事実です。
それらをひとまとめにして「はい、これがあなたの人生です。どうぞ」って渡されたって、「そんな重くてデカいもの、どう背負えっていうんだ」ってなりません?
「これとこれとこれ。ぜんぶあなたの人生の記憶です。どれを持っていきますか?」って言われたほうが、まだ選べる自由があるし、背負って歩くのも少しは楽になる。
忘れることなんてできないし、人生の記憶が詰まった本を燃やすことだってできない。
それでもそれぞれの記憶をひとつずつ分けて、それをその時々によって持ち運び、読んで、少しずつ噛み砕いていくことはできると思うんですよ。
いつ読んでもいいし、死ぬまで読まなくたっていい。そんな感じでいいんじゃないでしょうか。
「わたしたち誰にとっても、落着く場所などないのかもしれない。ただ、どこかにあるのだということは感じていてもね。もしその場所を見出して、ほんのわずかの間でもそこに住むことができたら、それだけで幸せだと思わなけりゃ。この樹はあなた方にとってそういう場所なんですよ(『草の竪琴』63P/トルーマン・カポーティ)」
人生は喜劇や悲劇の物語が詰まった本棚
たしかに過去と現在、未来は地続きかもしれません。ひとつの物語であることには変わりないかもしれません。
でも一つひとつの記憶はそれぞれが完結してて、そこで物語は終わってるんですよ。誰が悪い、何が悪いじゃなくて。
単純に、それは哀しい物語でした、これは幸せな物語でした、ってだけの話。
そういう喜劇や悲劇が書かれた本がたくさん並んでる、それが人生っていう本棚なんじゃないかな、って。そう思うんですよね。
「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇である(チャーリー・チャップリン)」
「人生山あり谷あり」の本当の意味
「人生山あり谷あり」という言葉は、一般的に「人生にはいいときも悪いときもあるよな」「人生にはいつだって困難がつきまとうよ」って意味で使われてます。
しかし本来はこんな意味を持っているそうですよ。
「山の頂にいるとき、谷間にいるとき。それぞれ見える景色は違う。人生にはいろいろな局面がある。その時々で幸せや不幸、物事の受け止め方や考え方は変わったりするものだ。視野を広げてみなさい」
人生をひとつの物語として捉えると、どうしても「喜劇」や「悲劇」に分類されちゃうわけです。
たしかに人生はひとつの人間のストーリーなのかもしれないけど、長い人生には幸せなときも不幸せなときもあるもんなんですよ。
それぞれの物語は、時として自分に何かを教えてくれる教科書になるかもしれないし、自分の考え方を変えてくれるカンフル剤にだってなるかもしれないわけです。
まー、だからムリして、「これが自分の人生なんだ。ぜんぶ背負っていかなくちゃ」って気負わなくていいってこと。
持っていける分だけを必要なときに引っ張り出せばいいんです。読んでみようかな、って思ったときに、その本をちょろっと開いて見ればいいんですよ。
「過去と未来とは一つの螺旋形をなしていて、一つのコイルには次のコイルが連なっており、またその中心主題をも包含しているということを、いつか本で読んだことがある。恐らくそのとおりなのであろう。だが、僕の人生は、むしろ閉じた円、つまり環の羅列であって、決して螺旋形のように次から次へと連なっていくことはなく、一つの環から次の環へ移行するには、すべるように伝わって移ることは不可能で、跳躍を試みるより他にない。そのような形に思えるのだった。(『草の竪琴』179P/トルーマン・カポーティ)」
人生はクソゲー
はっきり言って、仕様だけ見れば人生は間違いなくクソゲー認定です。
- リセマラができない
- キャラメイクができない
- セーブができない
- 能力値より顔が重視される
- 残機はゼロ
- 誤った道に進んでも戻れない
- 敵を殺すと自身も死ぬ(社会的に)
- ジョブチェンジの難易度が異常
- 何万時間もやりこんでるのに上位職の壁が高すぎ
- クリア=ゲームオーバー
たしかに僕らはしょせん、単なる役者でしかないのかもしれません。でもそれでいいと思うんです。
悲劇であろうが、喜劇であろうが、今こうして息をして生きている僕らは少なくともこの物語の主人公であって、
幸いにもこのストーリーを喜劇にだって、悲劇にだって変えられる力を与えられているわけですから。
別にランキング上位に行くことだけがゲームの目的じゃないしね。
ハッピーエンドかバッドエンドかは観客が決めるもの?
「ハッピーエンドかバッドエンドかは観客が決めるもの」
たしかにそうかもしれないけど、悲劇は喜劇になるし、喜劇が悲劇になったりもするわけです。
別に誰かのために生きているわけじゃないし、他の誰かに悲劇か喜劇に分けられるとしても死んだ後のことです。気にする必要なんてない。
ハッピーエンドにバッドエンド、そういう作品にたくさん出演して、出番が終われば消えるだけ。ただそれだけ。
考えようによっちゃ寂しいことかもしれない。でもだからこそ、好きなようにやってやりゃいいと思うんですよ。
過去を認めようだとか、前を向いて歩いていこう、だとか。そんなことはどうでもいいんです。
もっと楽でいいし、自由でいい。ぜんぶ背負わなくたっていいんです。
たかが三文役者。失うものなんてない。思うように踊れば、それでいいんじゃないですかね。
「人生は動く影、所詮は三文役者。色んな悲喜劇に出演し、出番が終われば消えるだけ(『マクベス』/シェイクスピア)」
物語は共有してこそ物語になるのかもしれない
ダイワハウスのTVCM「One Sky」
「僕らは一人ひとり違うけど、共有できるものもたしかにあるんじゃないか?」
別に僕は良いことを言いたいわけではなくて、純粋に心からそう思うんですよ。
こちらは大和ハウス工業株式会社が2018年の10月から放映されている、東京2020オリンピック・パラリンピックをテーマにしたCM。
見たことあるって人も多いんじゃないでしょうか?
『私たちは違う 髪の毛の色も 肌の色も……』ってセリフから始まるんですが、すべてに共感できなくとも、どこか心に響くものはあるはず。
ペルソナ3で死ぬと出てくる文章
この記事の冒頭で『ペルソナ3』から「揺れ動く自分を見つめるためにも、人は生死について思いを馳せる必要がある。」って言葉を引用したんですけど、このゲーム、死ぬとこんな文章が出てくるんですよ。
死は、ふいに来る狩人にあらず もとより誰もが知る… 生なるは、死出の旅… なれば生きるとは、望みて赴くこと。
それを成してのみ、死してなお残る。見送る者の手に”物語”が残る。けれども今、客人の命は潰え、しかし物語はこの手には残らず…
僕のない頭で懸命に読み取ってみると——、
死は急に来るものじゃないよ。誰でも知ってると思うけど、生きるってことは死に向かうことなんだよね。つまり生きるってことは望んで死に向かってるってことなんだ。
それができてこそ、死んでも存在が残るんだよ。家族に友人に物語っていう記憶が残るんだ。でもね、物語を完結させる前に倒れちゃった僕にはストーリーは残らないんだよ
ざっくばらんに解釈すると、「君の物語が完結する前にゲームオーバーしちゃったね」ってこと。
それがどんなものであれ、記憶ってやつは誰かと共有して初めて価値が生まれるのかもしれないね。
『草の竪琴』を読んだ感想
今回の記事を書くきっかけともなった『草の竪琴』。読み方は"くさのたてごと"。
何の気なしに、おもしろい小説が読みたいな、と思って調べていたときに気になって購入した本です。
偶然にもこの作品が発売された年月が、僕の生まれた年月と一致していたのには思わずびっくりした。
『草の竪琴』を一言で表すならば、繊細で美しくどこまでも優しい物語、ですかね。
単純に優しいというよりかは、
「現実って厳しいよなー。でも夢の世界にいつまでも生きることはできないんだよ。いつかは大人にならなきゃな」
と諭しつつ、僕の心にそっと寄り添ってくれるような、そんな優しさっていうのかな。
この表現が正しいのかはちょっとわからないけど、少なくとも僕にとっては勇気をくれた作品でもあるわけです。
なんとなく寂しいような、どこか物足りないような、そんなもやもやした気持ちを包容してくれる物語でした。
なんでもないところで思わず涙腺が緩んでしまったり、過去の記憶を思い出してふふっと笑ってしまったり。
そういうところもこの作品の魅力なのかな、って。「きっとこれからこの本を開くたびに、感じることや思うことが違ってくるんだろうな」って印象を持ちましたね。
まるで音色のように言の葉を紡ぐ、詩的でどこまでも綺麗な文章。僕はとっても好き。
『秒速5センチメートル』と『草の竪琴』
『草の竪琴』を読んだあとネットで他の人の感想とか考察とかを調べてたんですが、この本『秒速5センチメートル』にもちらっと出ていたんですね。
もう一度予告編を見てみると、たしかに出てた。しかも冒頭部分に。
高校生の明里がホームで電車を待っているとき、『草の竪琴』を手に持って空をふっと仰ぐシーンです。
今にして思ってみれば、淡く揺れ動く恋心に繊細かつ美しい人間模様など、『秒速5センチメートル』と『草の竪琴』って共通点が多いなあ、って思いました。
ネタバレになっちゃうんであんまり言えないんですけど、「ふぅむ。このときの明里の気持ちはそういうことだったのかもしれないな」と妙に腑に落ちました。
『秒速5センチメートル』が好きな人は、ぜひ『草の竪琴』を読んでみてください。
『草の竪琴』を読んでいて、まだ『秒速5センチメートル』を観てなかったらぜひ観てみてください。小説版もあります。
それぞれの世界観をよりもっと楽しめるはずですよ。
新海誠作品は繊細かつ美しい物語である
新海誠監督は美しい背景描写と、登場人物たちの微妙に揺れ動く繊細な心情描写がホントに上手いです。
ぜひこのすばらしい新海誠作品を共有したい。
1.秒速5センチメートル
上で紹介した『秒速5センチメートル』は淡く切ない恋心を描いた短編3部作で、時折無性に観たくなる瞬間が来る。少なくとも年に一回は観てますね。
特に感傷に浸りたいときに。あの頃の青春はもう二度と手に入らないんだ、そう自分に言い聞かせたいときに。小説版もどうぞ。
2.言の葉の庭
『言の葉の庭』は雨の描写がとにかく美しい。それは思わず写真かと思ってしまうほど。
登場人物の細かい心理描写を、こういった何気ないカットに込める、という手法の巧みさはまさに天才のそれと言っても過言じゃないです。
小説版もぜひ読んでほしい。
3.君の名は。
大ブレイクした『君の名は。』は個人的にものすごく思い入れの大きい作品で、なんと「公開上映中に同じ映画を4度も観る」という偉業を達成してしまいました。
当時は人生で3本の指には入るであろう辛い出来事があって、僕は貝になってしまいたいほど辟易してたんです。
でもこの映画はまるで自分のために作られたんじゃないか、そう思うほどで、なんとなく救われた気がしたんですよね。
今となってはその夏に起きた出来事すべて含めて喜劇であったかな、と思えるようになりました。
こちらも小説版があるのでぜひ。サイドストーリーを描いた小説も良きです。
新海誠作品が観れる動画サービス
dアニメストア、U-NEXTともに31日間の無料トライアル期間があります。ぜひこの機会に新海誠作品に触れてみてくださいね。
もちろん『草の竪琴』もぜひに。
こちらの記事では僕が心に響いたおすすめのアニメもまとめてます。
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