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実家に帰ってきて1年…26歳の男が「引きこもり」になった原因と心が楽になった3つの方法

いつからか、外に出たくないと思うようになっていた。

人と話すこと、関わることに——苦痛とは言わないまでも——摩擦を感じるようになっていた。

いつからか、車のエンジン音が怖くなった。いつからか、道で人とすれ違うことが怖くなった。

テレビの音が嫌になった。SNSを遠ざけるようになった。電話が鳴る度に、不安な気持ちになった。

ふと、心が過去に行く。胸がどきり、とする。ふと、心が未来に行く。胸がざわり、とする。

「——ああ、ちょっとこれは、どうしたものかな、ううむ」

26歳の男が、この1年の「引きこもり生活の実情リアル」を赤裸々に語りながら、

  • 引きこもりになった——と思われる——原因
  • 落ち着きのなかった心が楽になった3つの方法

をまとめていきます。

今は割と——と言うか、そこそこ「人生楽しいぞ」と思えているので、現状に悩んでいる人の参考になれば嬉しいです。

「引きこもり」は病気ではない

厚生労働省の「ひきこもり施策について1」のページでは、引きこもりを以下のように定義しています。

仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態

ここで注意したいのは、「『引きこもり』は——単一の疾患や障害の概念ではなく——さまざまな要因が背景になって生じる」ということです。

また、内閣府の「若者の生活に関する調査報告書2」によると、6ヶ月にわたって——

  • 趣味の用事のときにだけ外出する
  • 近所のコンビニなどには出かける
  • 自室からは出るが、家からは出ない
  • 自室からはほとんど出ない

のいずれかに当てはまる人が「引きこもり」と定義されています。

つまり、引きこもりは病気ではない——あくまで、ある特定の状態像を示す言葉——ということですね。

引きこもりになった原因を考える

きっかけは「挫折体験」によるもの?

内閣府の調査を見てみると、「ひきこもりになったきっかけ3」は——

  • 職場や学校になじめない
  • 失恋やいじめによるつまずき
  • 学業成績の低下や就労の失敗

など、病気のほかに、仕事や学業での挫折経験がきっかけの多くを占めていることがわかります。

僕は無理をしすぎたのだろうか

一方、僕には「明確な挫折経験」が思い当たりません。

もしかすると、——意識下か、無意識下かはともかく——日々に小さく感じていた、

  • 自分に対しての「不足感」
  • 対人関係への「苦手意識」
  • 将来に対する「漠然とした不安」

などが幾重にも積み重なった結果、「一種の挫折経験をしてしまった」という結論に至ってしまったのかもしれません。

僕のこれまでの経歴は、同ページ内の後半「「人見知り」と「あがり症」を克服したかった人生」でまとめることにします。

ここでは先に、「引きこもり生活において、心が楽になった3つの方法」を紹介します。

心が楽になった3つの方法

悩むぐらいなら、考える。考えて悩むぐらいなら、考えない

結論から言うと、引きこもりで「悩む」必要はありません。もし現状をどうにかしたいと思うのであれば、まず「考える」ことから、です。

悩むぐらいなら、考える。考えて悩むぐらいなら、考えない

これは、1年間の引きこもり経験から僕が辿り着いた、ひとつの答えです。

『イシューからはじめよ』の冒頭では、「悩む」と「考える」を以下のように定義しています。

  • 「悩む」=「答えが出ない」という前提のもとに、「考えるフリ」をすること
  • 「考える」=「答えが出る」という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること

まあ悩むのが人間という生き物ですし、答えが出る出ない以前の話として、問題と向き合うこと自体に価値があるという事柄も多くあるでしょう。

ただ、引きこもりという問題に関して言えば、「悩むという行為は『危険な落とし穴』になり得る可能性が極めて高い」と言えます。

10分で答えが出ないときは「悩んでいる状態」

もしも10分間、自分が抱える問題について真剣に頭を働かせても答えが出なかったとしたら、それは「悩んでいる状態」であることが多いです。

そういうときは、「ああ、いま自分は疲れているのだな」と割り切ってしまって、一度そのことについて考えることから離れるといいと思います。

まあこういう場合は「疲れたら休む」が基本ルールなのかもしれませんが、稀に、

「はて? "休む"ってどうするんだっけ?」
「あれ? 休んでるはずなのに、"何かしなきゃいけない感"がすごい……」

——などの「休んでいるが、休めてはいない」という、どこぞの政府関係者の言い訳のような状態になってしまうことがあります。

ふと、「あれ? ベロってどこに置いておくのが"自然"なんだっけ……?」と思うと、急にベロの位置が定まらなくなる現象がありますよね。あれです、あれ。

あまり「休まなきゃ」と気負わずに、いつもよりちょっとだけでもリラックスできる過ごし方ができればいいですよね。

ひとつでもいいので「よい習慣」を持つ

「自己肯定感が低いから引きこもりになったのか、引きこもりのために自己肯定感が低くなるのか?」

という問題にはさておき、引きこもり生活は「自己肯定感が低い」状態が続くことが多いです。

引きこもり生活においては、「(一日中)何もしていない」という事実が、自分と自分以外の人間の「差」を浮き彫りにするので、

「自分は引きこもりだから、(他の人よりも)劣っている」
「自分は何もしていないから、(他の人よりも)価値がない」

といった思考に陥りやすいです。

こうした「不足感によって自己肯定感が低くなり、自己肯定感が低くなることで、また不足感が悪化する」といったループに迷い込むことが多いわけですね。

この問題を解決するためには、「何かひとつでも『よい習慣』を取り入れる」という方法がおすすめです。

なんでもいいです。人と比べてどうか、ではなく、あくまで「自分から見た『よい』と思えるもの」で、「自分から見た『ちょうどいいハードルの高さ』で続ける」ことを意識するといいと思います。

自己肯定感を上げる薬は「継続」にアリ

コンビニで「自己肯定感が一気にアガる栄養剤」とかが売ってればいいんですが、少なくとも僕は見たことがありません。

自分でできる「自己肯定感」を上げる方法としては、とにかくなんでもいいので続けること、だと僕は考えています。

実際、僕が引きこもりになってから感じていた「罪悪感」や「焦燥感」、「自己嫌悪感」は、習慣を持つことでいくらか軽減できたように感じています。

日記であれば一行だけでも、筋トレであれば一回だけでも、瞑想であれば一分だけでも、続けてみるといいです。

もしできない日があっても、自分を責める必要はありません。できないときはできないときで、できるときにやればいいのです。

まったくやらないよりかは、「ああ、今日は調子いいから、アレ、やってみるか」ぐらいのゆるいテンションのほうがよっぽどいい。

ゲームでも、アニメでも、映画でもいいので、何かとりあえず「自分なりの目標」を作ってみて、トライする。そして、自分ができる範囲で続けてみる。

お互いにそうやって、だんだんと自分を肯定できるようになっていけたら、いいですよね。

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自分について「考える時間」を持つ

僕はこの「毎日が憂鬱な日曜日」の引きこもり生活において、できるだけ「自分のことについて考える時間を設ける」ように心がけています。

「自分のことについて考える」というのは、あくまで便宜的な表現であって、正しくは、

「(周りに影響されやすいので)自分以外の人や物事に関してあまり考えないようにする」

といったところでしょうか。

引きこもり生活はただでさえ自己肯定感が低くなりがちで、焦燥感にあおられる場面が多いです。

そういった問題の多くは、ネット(主にSNS)から入ってくる情報——特に「他人とのギャップ」によるところが大きいと僕は考えています。

人間、暇だとロクなことを考えないので、僕はとりあえず「自分に入ってくる情報の取捨選択をする」ことを意識しています。

「自分について考える時間」を持つための具体的な方法

平たく言うと、

自分に入ってくる情報の量(インプット)を減らして、なるべく自分から出ていく情報の量(アウトプット)を増やすように心がける

ということです。

ここで言うアウトプットは、Twitterでつぶやくとか、ブログを書くとかいうことだけではなくて、要は「そのときの自分の気持ちに注目する」「今の自分の心身の状態をどこかに書き留める」というイメージですかね。

できれば、一日の終わりに、ちょろっと日記を書いてみるといいです。

自分の気持ちを書けたらベリーグッドで、それができない場合は「ただの今日一日を通しての行動記録」だけでも、だいぶ感じ方が変わってきますよ。

減らす時間と増やす時間

僕の場合は、以下のように「減らす時間と増やす時間」を設定しています。

  • 減らす→SNSを見ている時間、ニュースを見ている時間、テレビを観ている時間
  • 増やす→本を読む時間、アニメや映画を観る時間、ゲームをする時間、日記(ブログ)を書く時間

まあこう書くと、

「毎日本を読んで、ゲームをして、アニメや映画を観て、たまにブログを書くだけの、何の生産性もない生活じゃないか」

と思われてしまいそうですが、実際その通りなので何も言えません。

僕はむしろ、「本やゲーム、アニメ、映画に没頭している時間ほど、自分について考える絶好の機会はない」とさえ考えています。

娯楽コンテンツは、基本的に「多くの人がおもしろく感じるように」つくられているので、今の自分の状態を知るための指標になるんですよね。

おもしろくないなら、なぜおもしろくないのかを考えてみる。おもしろいなら、なぜおもしろいのかを考えてみる。

他の人がつくった作品や他の人の考えに触れて、自分がどう思うか、どう感じるのかを考えてみる。

そうやって外堀から埋めていき、だんだんと「自分の状態」という内側の形を、明らかにしていくイメージです。

どんな問題であれ、まずは現状を確認してみないと、どうすることもできないですからね。

とにかく時間を置くこと

もっとわかりやすく言うと、「ぬか漬」ですかね。

「箱」に詰められるだけ、自分の食べたいもの(好きなものとか、興味のあること)を突っ込んで、あとは放っておく。

そうして時間をおいてできあがった「漬物(ふわふわと浮かびあがってくる疑問とか、気づきとか、発見とか)」を眺めて、食べて、感想を述べるだけ。

これは思ってみるだけでもいいし、どこかに書き留めるだけでもいいし、SNSやブログに書いてみるでもいいです。

つまりは、「心や脳の要領は限られているので、そこに自分の好きなもの以外を詰め込むスペースなどはない」ということです。

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引きこもりは「甘え」なのか

引きこもりは「甘えている」「サボっている」「腑抜ふぬけている」と思われてしまいがちですが、冒頭でも言った通り、

「『引きこもり』は——単一の疾患や障害の概念ではなく——さまざまな要因が背景になって生じるもの」

なので、一概にそうとは言い切れません。

引きこもり本人が言うと、どうしても「引きこもり擁護発言」のニュアンスが強くなってしまいますが、

『休む』ことと『サボる』ことは似て非なるもの

だと僕は考えています。

『休む』ことと『サボる』ことの違い

全員がそうでないにしろ、引きこもりのほとんどは、「自分で願わずして引きこもりになった——否、なってしまった」のではないでしょうか。

これを「サボっている」としてしまうか、それとも「休んでいる」としてしまうかでも、自分の感じ方や自分に対する捉え方が変わってくると思うんですよね。

「サボる」と言うと「ものすごく悪いこと」のように思えてきますが、「休む」は「再び歩みを進めること」が前提というニュアンスが強い印象です。

引きこもりは必ずしも要因が内にあるとは言い切れないので、引きこもりという状態像は、少なくとも「休んでいる状態」に分類されるはずなのです。

体力や知能指数が人によって異なるように、心のあり方も人によって違いますからね。

悩みや幸福に大小はない

たとえ他の人から見て些細な問題だとしても、本人が真剣に悩んでいるのであれば、それは「大きな悩み」なんですよね。

ただ、日本社会——世間や資本主義社会——においては、「平均こそが真理であり、平均であることが幸福の印であり、平均でいてこそ立派」だとされる場合が多いです。

そのせいで変なことになってしまうのです。

人と違うということが——人と異なる考えを持つことが——まるで罪悪のように、一種の病気のように取り扱われてしまうのです。

本来、悩みや幸福の「レベル」というのは、「その他大勢の平均」によって導き出されるものではなく、あくまで「"個"から見たときの大小」であるべきなんですよね。

同じように、「自分の価値」という観点において、周りの人間が求めているような『自分らしさ』なんてものは本当はどうでもいいのです。

自分の価値は他人が決めるもの?周りの人が求める「自分らしさ」なんてどうでもいい

焦りや嫉妬を感じるものは「がんばれば手が届く」?

人の心はおもしろいもので、「自分と似たような——同じようなレベルの相手にしか競争心を抱かない」んですよね。

たとえば、TwitterやFacebookでは、やけに人が羨ましく思えたり、幸福そうに見えたり、嫉妬をしたり、成功を素直に喜べない、なんてことが多いです。

でも、「イチローが羨ましすぎてめちゃくちゃ嫉妬する」とか、「タモリがおもしろすぎていつもスベることを期待している」とか言う人、あんまりいないですよね。

つまり、焦りや嫉妬を感じるものは『がんばれば自分でも手が届く』と自分が判断しているもの、と言い換えることができるのではないでしょうか。

逆に言えば、自分と他人とを比べたときに出てくる嫉妬心や焦燥感というものは、「自分が前に進もうとしている証拠」だということです。

他人に対してそういったマイナスな感情を抱くことは、控えめに言ってもあまり気持ちのいいものではありませんが、別にそう感じたからと言って「自分は性格が悪くて嫌なやつだ」とは思わなくていいのですよ。

「人見知り」と「あがり症」を克服したかった人生

ざっとこれまでの経歴を振り返ってみると、僕は「『人見知り』と『あがり症』を克服したかった人生」を送ってきたように思います。

幼少期から目立ちたがり屋で、自己顕示欲が強く、その癖、人の前に出ると失敗ばかりし、緊張すると腹痛や頭痛に襲われる、という傾向がありました。

ただ、恥ずかしがり屋だとか、人見知りだとか、自己顕示欲が強いだとか、そういうことを自分では認めたくなかったのです。

自分で「自分の弱点」を認めてしまうと、それは自分の中で「負け」となってしまい、「他の人よりも自分が劣っているという証明になってしまう」と信じ込んでいたんですね。

つまり、「その他大勢にはなりたくない」という気持ちが強かった——否、強すぎたんだと思います。

人と違うことをする=自分は特別な人間だという証明になる?

「特別な人間に見られたい」「自分は天才なのだと証明したい」「他の人にはない才能が、自分にはきっとあるはずだ」

——と思う一方で、自分は自分自身の「人見知り」や「あがり症」、「不安症」という弱点を知っていた。

でも、それは認めたくないし、認めてはならない。誰にも気づかれてはいけない。自分の力だけで、弱点を克服しなければいけない。

「自分は特別な人間である」と信じながら、「自分は特別な人間ではない」と感じ、「誰かに認められたい」と願いながら、「才能のない自分が人に認められるわけがない」と思う。

だから僕は、

人と違うことをすることで、自分は特別な人間であると証明できる

という結論に至ったのだと、今になって思います。

人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ

「よし、雫。自分の信じる通り、やってごらん。でもな、人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。誰のせいにもできないからね」

ジブリ映画『耳をすませば』にて、主人公・雫の父親が、受験勉強そっちのけで小説の執筆に打ち込む雫に言った言葉です。

僕自身、これまで「人と違うことをすること」に強いこだわりがありました。

「自分の存在証明」や「自分の弱点を克服する」といった目的でも、それは自分にとって価値のあること、訓練になることだ、と考えていたのです。

「人見知り」と「あがり症」は7年経っても治らなかった

僕は、高校生の頃にバンドを組んでから7年間、音楽活動に打ち込んできました。

月に2〜3度ステージに立ち、ツアーの名目で全国を廻り、レコーディングをしてはCDを作り、イベントを主催しては、またステージに立つ——。

これと言って趣味もなく、自分に誇れるものなど何ひとつない、と感じていた僕にとって、この期間は心の底から楽しいと感じられる時間でしたし、誇りでもありました。

ただ、唯一のネックは、「ステージに立つこと」だったんですよね。

本番の前はいつも緊張で腹痛や頭痛に襲われ、演奏中は常に失敗が怖かった。

練習不足と言えばそれまでですが、バンドを辞めるまでの1年は、本当に辛い場面が多かったように思います。

「なんで自分はいつまで経っても『あがり症』を克服できないんだ、もう何年、同じことを繰り返すんだよ」

——と、それまで地道に積み上げてきた「自分に対する信頼」が大きく揺らいでしまったんですよね。

僕は生き急ぎ過ぎたのかもしれない

それまで「バンドマンであること」を自分の「一種の誇り」として生きていた僕は、バンドを辞めてから、「特別」を求めて、冬山のスキー場で資金を貯め、自転車で旅に出ました。

旅に出てから3ヶ月ちょっとのところで、ふと「英語が勉強したい」と思い立ち、フィリピンへ留学した後、海外移住——そこで事業を立ち上げました。

それも自分の弱点を克服する目的が強く、特別でいるための「自分の中での条件」だったように思います。

その後、訪れたハワイやアメリカでのキャンピングカーによる大陸横断も、とても有意義で、とても楽しい時間でした。

——ただ、僕にとってそれは、本来ならもっと長い時間をかけてやるべきことだったのかもしれない、と今になっては感じます。

決して後悔しているというわけではなく、「もうちょっとゆっくり進んでいてもよかったんじゃないかな」ということです。

異変はフィリピンに住んでいた頃から始まった

急に外に出るのが億劫になり、疲れやすくなり、歩いていると急に目眩がして経っていられなくなったり、といった異変が起き始めました。

実際、約1年間の移住生活のラスト3ヶ月ほどは、部屋でひたすらアニメと映画を観るだけの、すでに「引きこもり」のような状態になっていました。

ハワイやアメリカでの旅中も、全40〜50日の日程のうち、8割ほどはずっと調子が悪かった。原因不明の腹痛と頭痛がだらっと続き、そのせいで行けない観光地もいくつかありましたね。

実家に戻ってきてからの1年間を振り返る

「ああ、やっとゆっくりできる」と思えたのは、つい去年の出来事、2019年の2月頃です。

もともとは自分が好きで始めたことなので、あまり弱音は吐きたくないのですが、この4、5年ほどを思い返してみると、ロクに「休む」ということをしていなかったように思うんですよね。

だから、この1年間の「引きこもり生活」は僕にとって、とても有意義な時間だったとも言えるわけです。

完全に自由な状態にも関わらず、何もできない日々

別に差し迫ってやらなければいけないこともなく、出かける用事もなく、外で誰かとあった記憶というのも、片手で数えられる程度——。

その気になればどこへでも旅行に行けるし、その気になればなんでも勉強できて、なんでも始められて、なんでも挑戦できた1年——。

「完全に自由な状態」というのは、不自由があってこそ、真のありがたみを受けられるものであって、毎日のように完全に自由な状態が続くと、次第に心が廃れていくんですよね。

やっと心の平穏が戻ってきたかもしれない

正直に言ってしまうと、本格的に「何かやらなきゃ」と思い始めたのは、ほんの先月ぐらいのことです。

この1年間、何か新しいことに挑戦しようという気持ちはビタも生まれず、ひたすら娯楽に溺れた時間を過ごしてきました。

だからと言って、無駄な時間を過ごしたなどとは決して思いません。むしろ、こういう過ごし方は今でしかやれなかったことだと僕は考えています。

たぶん、世間一般的で言うところの「普通の暮らしをしている人」が3年かけて触れるであろう作品や学問に、僕は触れてきたと言っても過言ではありません。

ゲームやアニメ、映画、漫画、ドラマ、古典、心理学、文学、小説、経済、脳科学、宗教、ライティング、マーケティング、etcetc——。

まあすべてが中途半端であることは事実なんですが、あくまで「実用的かは度外視して、趣味として楽しんだもの」なので、別に後悔はしてないです。

いつ「引きこもり」から脱出できるかはまだわからない

ここまで散々いろいろと書き連ねてきましたが、まだいつ「引きこもり」から脱出できるかはわかりません。

最近やっと自分から進んで外に出るように——ただの散歩だけど——なってきたり、「どこかへ旅行にでも行こうかな」と思い始めるようになってきたので、僕は「いい兆候だ」と前向きには捉えてますね。

「少し精神的な問題(悪夢障害や不眠症など)もあるのかもしれない」とは思っているんですが、幸い、生活に支障を来すというレベルではありません。

今のところ、自分なりに良いと思える習慣も問題なく続けられていて、こうしてブログを書けるぐらいには元気なので、ひとまずはこの状態をキープしていくつもりです。

自分の価値は他人が決めるもの?周りの人が求める「自分らしさ」なんてどうでもいい
引きこもりになってしまったきっかけはアニメとゲームかもしれないから未来がヤバい
バカにできない「朝30分」の魅力とは?朝時間に取り入れてよかった7つの習慣
  1. ひきこもり施策について - 厚生労働省
  2. 若者の生活に関する調査報告書(PDF版) - 内閣府
  3. 第2節 若年無業者,フリーター,ひきこもり|平成27年版 子供・若者白書(全体版)

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