やりたいこと、ありますか。
極めたいこと、ありますか。
僕は正直に言って「ある」と断言はできません。
『もしかしたらこれかな?』というものはいくつかありますが、それが果たして自分の本当の気持ちなのかはわからないんです。
『こんな宙ぶらりんな状態のまま、記事にしちゃっていいのかな』
『思考をそっくりそのまま吐き出したような文章、ブログに残しておいていいのかな』
こんな気持ちもあります。自白してしまうと、文章を書いている今もとっても悩んでます。
それでもやっぱり僕は、書くことでしか答えを得られない生き物らしく——。
メモ帳でも、紙切れでもなくて、ブログっていう場所にきちんと書き残しておきたいんですよね。
もしかしたら僕と同じように悩んでいる人がいるかもしれない。
そんな人がいたら、『あっ、悩んでるのは自分だけじゃないんだ』って思ってもらえるかもしれない。
綺麗事じゃなく、純粋にそう思うのでありますよ。
いつか忘れた頃に、自分がこの記事を読んで少し楽になるかもしれないですしね。
答えはハッキリしている
きっと迷ってるんでしょう。答えを出してしまうことに。覚悟を決める、ということに。
だって別にここできっかり『これ!』と決めなくたっていいわけですよ。
自分にはこれしかない——。たしかにこう決めたら強いです。夢中になれます。熱中できます。
それでも道を決められないでいるのは、きっと迷ってるから。
『このままでいいのか?』
『大変なんじゃないか?』
『自分に本当にできるのか?』
『自分にその覚悟があるのか?』
『生活は、将来は大丈夫だろうか?』
『もっと他の選択肢があるんじゃないか?』
やることは単純で、
1.やると決める
2.やる
なんです。つべこべ言わずにやれば、わかる。それはわかってる。
でも自分の中にある答えらしきものが、果たして正解なのかそうじゃないのか、前なのか後ろなのか。
それがわからないから。何を恐れているのかがわからないから、不安だし、怖い。
それでも——、やっぱり進むしかないんですよね。
わからないことが一番怖い
なんだって"わからないこと"が一番怖いですよ。予測できない、経験したことがない、知らない、聞いたことがない。未知の世界。
そこへ向かって進もうとしてるんだから、そんなの怖くて当たり前ですよね。
だったらそれを少しでも覗いてみる。何がダメで、何がダメじゃないのか。たとえそれが失敗でも、成功でも、わからないよりはまだマシ。
たとえば目の前に、作り物のリンゴと本物のリンゴがあるとするじゃないですか。
『これは本物かな……? 偽物かな? 偽物だったらどうしよう……。取り返しの付かないことになるんじゃ……』
そこでいくら考えたところで、どちらが本物のリンゴなのか、その答えは見つかりません。
姿、形がそっくりだとしても、やっぱり触ってみないと、かじってみないと本物かどうか確かめようがないです。
失敗しても死ぬわけじゃない。ちょっとお腹を壊してしまうぐらい。
きっと効率的に生きたいんだと思う
同じ作業をやるのならば、長く時間をかけるより、短く終わらせてしまったほうがいいですよね。
少しでも、一手でも早く王手を決めたい。無駄な手数を打たずに、最小限の力で、最大限の効果を発揮する一手を打ちたい。
きっと誰しもがそうなんじゃないでしょうか。何かを手に入れるのなら、できるだけ少ない時間で、できるだけ小さい犠牲で済ませたい。
それを考える余り、自分の行動や思考が正しいものなのか疑ってしまって、結局そこから動けずにいる。一歩も踏み出せないでいる。
成功体験の話は、世の中にいくらでも溢れてます。それを少しでも取り入れて、少しでも無駄を省きたい。その考えはきっと合ってます。
それでも答えを導き出すためには、自分で考えて、自分で実践して、自分で確かめていくほかないんですよね。
育ってきた環境も、それに投資できる時間やお金も、価値観も。それらは人によって様々ですから。
まったく同じ人間が地球上にいないのと一緒。自分には自分だけの定石があるはずなんです。
仮説や検証を抜きにして、答えに辿り着こうなんてのは、自分のことながら『ちょっと甘いな』って思ってます。
無駄なことなんてない。それもわかってる
もしかしたら今、もしくはこれから選ぶ道が、自分にとって最善の方向ではないかもしれません。
それは誰にもわかりません。家族や友人、たとえそれがその道のプロだとしても、自分自身だったとしてもわからない。
これまで自分が積み上げてきたものが、得てきた知識が、経験が。
それらが意義のあるものだったのか、そうではなかったのか。結局はあとになってみないとわからないわけです。
同じように『あのときこうしていれば……』の答えだって誰にもわかるはずがないんですよ。
過ぎ去った時間は元通りにはならないし、時を遡って原因と結果を変えることは不可能ですから。
人と比べてしまうということ
『自分がやりたいと思ってることは、もしかしたら本当にやりたいことじゃないのかもしれない』
こんな風に、思ったこと、感じたことはないですか。
僕はこれまでいろいろなことに挑戦してきました。自分でたしかに『やりたい』と思ったことです。
それでも「それが純粋に、心の底からやりたかったことなのか?」と聞かれれば、100%YESとは答えられません。
それはもしかしたら、
『自転車で日本を旅してことあるぜ! 辛かったわー!』
『セブに移住して起業したんだぜ! 刺激的な体験だろ!』
『キャンピングカーでアメリカ大陸横断したんだ! すごいだろ!』
『日本一のバンジージャンプ飛んできたぜ! やってみたら案外怖くなかったよ!』
っていう、
「たくさんの人から称賛を浴びたい」
「他の人と違うことをして注目されたい」
みたいな「自己顕示欲」や「承認欲求」から来た行動だったのかもしれません。
でもそれでいいと思うんです。たとえそうだったとしても、それらは紛れもなく自分がやりたい、おもしろいそう、とやってきたことだから。
優秀な人はたくさんいる
優秀な人はたくさんいますよ、そりゃ。SNSなんて特にそうじゃないですか。すごい人ばっかりで。幸せそうで。楽しそうで。
それでもきっと、そういう場所に身を置いているのは「他の誰でもない自分自身」なんですよね。
少しでもそういう優秀な人たちの持つ"何か"を吸収したくて、自らそういった環境に自分を置いてるんじゃないでしょうか。
——だったら。もしそうだとしたら、卑下する必要なんてありません。人と比べる必要なんてこれっぽっちもないんですよ。
たしかに今の自分には足りないことがたくさんあるかもしれない。持っていない知識や経験、そういったものがあるかもしれない。
それでも「少しでも何かを吸収してやろう」っていうスタンスでその場所にいるんですよね。優秀な人たちから質の高い情報を得ようと注目してるんですよね。
じゃあたとえ小指の先っちょの垢ほどのものだろうと、1mmでも盗めたらそれで本望じゃないですか。
ホームランなんか打たなくていい
今がツーアウト満塁のような局面だとしても、ホームランを打つ必要はまったくないんです。
しょっぼいゴロだろうと、ビビってバントをしようと、なんだっていいんですよ。
それが前でも、後ろでも。一歩でもその場所から動ければ、それでいいんです。どうせどっちが前かなんて誰にもわからないんですから。
なんならピッチャーめがけてバットをぶん投げたっていいんです。常識なんてものはあってないようなもの。誰に何を言われようと、知らん顔しておけばいいんです。
個性と才能と努力と
やれ個性だ、やれ才能だ、やれ努力だ。そうやって言うばかりには、自分を尊重できてないんですよね、きっと。
嫌いなものは嫌い、好きなものは好き。それでいいじゃないですか。
『世間のことなんてどうでもいい』と言う割には、周りの評価を気にして、空気を読んで、必死に期待に応えようとしてる自分がいる。
「その先には何があるんだろう?』って思うんですよね。本当にね。
これまでそうやって生きてきたから、それが苦しかったから——。
だから今、そういう自分を変えようと思ってるんじゃないのかな、って。
自分のルールを持つということ
別に意識高く生きよう、って話じゃないんです。
ゲームが楽しいならそれをやればいいと思うし、勉強したければすればいい。フォロワーを増やしたいなら増やせばいいです。
「いいね!」が欲しかったらみんなが「いいね!」したくなるものを、RTされたければみんながRTしたくなるようなものをどんどん発信していけばいいんですよ。
これがダメ、あれはいい、これが好き、あれが嫌い。ぜんぶ自分で決めることですよね。
どこの誰が決めたかもわからないような常識やルールに縛られて、勝手に苦しくなって、自滅して。なんだかとってもバカらしくないですか?
だったら自分のルールを持っちゃえばいい。そう思うんですよ。
自分の幸せのため、楽しく過ごすために生きる
自分のルールを持つ。それは常識やルールに縛られない、自由な生き方を選択するってことです。
目的はハッキリしてるじゃないですか。自分の幸せのため、楽しく生きるためですよ。
苦しんだり、悩んだり、焦ったり。要因がなんであれ、それだけ自分が傷ついてるんです。
じゃあこれから自分は、どうやって生きていったらいいのか。そんなん「今よりもっと幸せになる」しかないじゃないですか。
すべてのことはそれに付随するものでしかありません。いわざオマケです。ビックリマンチョコのチョコのほうです。
自分でコントロールできることなんてごくわずか
自分がコントロールできるものなんて、ごくわずかなんですよ。それ以外のことは一人の人間になんてどうしようもないことです。
自分が変えられるものなんてのは、自分と自分の周りにあるちょっとしかないんです。
もしかしたら自分や自分にとって大切な人が病気になるかもしれません。不慮の事故に見舞われるかもしれません。
でもそれは自分ではどうしようもないことです。天災は誰にだって降りかかるものです。
対策や予防はできるかもしれませんが、確実にそれを防ぐことなんてできやしません。いくら心配しても仕方がないことだってあります。
社会を変えようだとか、人を変えようだとか。そういったものの前に、自分の意識なり、思考なりを、ひとつずつ変えていくしかないんですよね。
どうせ深いつながりを持つのは限られた人間だけです。だったら別に八方美人に生きる必要なんてないじゃないですか。
他人のことはもう気にしなくていいんです。自分のルールを持つ。そして生きる。これだけです。
責任を伴う生き方
自分のルールを持つということは、それだけ責任も伴うということです。周りに合わせない、世間の常識に縛られない、ってそういうことですよね。
もしかしたら誰かを傷つける結果になるかもしれないし、迷惑をかけることになるかもしれない。
それでいいんじゃないでしょうか。
いくら法律で禁じられていようと、ルールが定められていようと。
それで本当に自分が心の底から幸せだと思えるのなら、それは正解なんです。
人間なんて、結局は誰かにすがって生きていくんですよ。誰にも迷惑をかけずに生きていくなんてことは無理な話です。
誰からも好かれることなんて、できっこない。本当に自分を好いてやれるのは自分しかいない。
宇宙がどうとか、世界がどうとか、世間がどうとか、社会がどうとか。
神様仏様が許そうが、許すまいが——、自分が許せばそれでいい、許せなかったらそれでいいじゃないですか。
自己犠牲の精神なんてクソくらえですよ、まったく。何の価値もない。
もう自分だけでいい
もう自分だけでいいんじゃないですかね。自分と、自分に守れるちょっとのものだけで。
幸せを感じられるもの、楽しいと思うもの。それを大切にできればいいと思うんです。
もしかしたらその行動の結果、世間から冷たい目で見られるかもしれない。後ろ指を指されるかもしれない。本当に刺されてしまうかもしれません。
それでも。もしそうだとしても、それが自分の幸せを追い求めた結果だったってことなんです、きっと。
諦めろ、君は幸せになるしかない
ただ歩くだけの死体になろうが、腐っても自分です。
過去に何があろうと、どんなことが起きようと、どんな未来が待ち構えていようと。
自分は自分でしかないんです。キムタクにはなれないんです。一生、自分と別れることはできないんですよ。
もう諦めましょう。幸せになるしかないんです。
ちょっとのことで幸せは手に入る
自分の認識できることなんて、宇宙に比べたらチリのひとつにだって満たないかもしれない。
自分がコントロールできることなんて、目に見えるか見えないかぐらいのことなのかもしれない。
でもその少しで、行動や思考、意識をちょっと変えてあげるだけで、幸せは手に入るんじゃないでしょうか。
だったら手に入れようじゃありませんか。
別に変えようと思わないのであれば、変える必要はまったくありません。
ただ少しでも苦しいとか、悩んでるとか、そういったモヤモヤした気持ちがあるなら、もうぶっ壊しちゃいましょう。
凝り固まった既成概念だとか、手本のように生きるだけの現実だとか、そういうのもうお腹いっぱいじゃないですか?
矛先を自分に向けんな
嫌なら逃げ出せばいいんです。
自分が幸せになるために今がんばってるんですよね。そのせいで辛い思いをしてるのかもしれません。
じゃあ矛先を自分に向けちゃダメじゃないですか。自分に当たっちゃダメです。
自分が変えられるのはこれからだけです。自分の思考や行動だけ。
何か守りたいものがあるはずです。やりたいことがきっとあるはず。手に入れたいものだってあるんじゃないですか?
そのために戦うのは当然でしょう。
誰が傷つこうと、誰に迷惑をかけようと、たとえ世界を敵に回そうと。
それよりも自分の幸せが勝ってるなら、それでいいんじゃないでしょうかね。
もう振り切っちゃいましょう。思いっきり傾けちゃいましょうよ。偏った愛は世界を救う。偏愛です、偏愛。
好きなら好き、嫌いなら嫌い。もう一人の人間なんですから。割り切って生きましょう。