笑顔の入れ物になろう。映画『この世界の片隅に』を観てそう思った話

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映画を観終わって、思わずスタンディングオベーションをしてしまいそうになりました。

実は、『この世界の片隅に』を観るのはこれで2回目。立川シネマ・ワンの「極上音響」、そして今回の池袋HUMAXシネマズ。

僕の心に深く深く突き刺さった、この作品。

きっと、『この世界の片隅に』に続く言葉は、観る人、観たときの境遇とかによって違ってくると思うのですよ。

もちろん、どの映画でも、どの作品でもそうなんでしょうけれど。

この世界の片隅に生きる僕が、『この世界の片隅に』を2回観て思った感想などをつらつらと書いていきます。

一応、「ネタバレあり」ってことで。未視聴の方はご注意ください。

『この世界の片隅に』に続く言葉

まず初めに抱いた感想。

「『この世界の片隅に』に続く言葉は、たくさんあって、時間とともに変わっていく」ってこと。

もちろん、このタイトルにはそういう意味合いも込められていると思いますが。

この作品は、「『この世界の片隅に』いる”すずさん”の話」でもあるし、「『この世界の片隅に』ある日常」でもある、と勝手に解釈。

〜あなたへ、〜あなたたちへ、〜いたとしても、〜いる限り、〜etcetc……。

こんな感じで、観る人やタイミングで作品の見方が変わってくる、という印象でしたね。

その中でも、僕が一番強く感じたのは「『この世界の片隅に』いる君へ」というメッセージ。

「君にあてた手紙のようなものであって、それはつまり、僕にあてた手紙でもある」ってことです。ざっくり。

“すずさん”に会ってきたような感覚

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

視聴中の感覚としては、この映画の主人公である「すずさんに直接会って話をしてもらっている」感じ。

“すずさん”という人に会いにいって、『あのときはこうでね、うちはぼぅっとした性格だからいろいろと大変でねぇ……』と話をしてもらっている気分でした。

「”すずさん”が自分の人生の物語を、綺麗な部分も、醜い部分も包み隠さず話してくれた」といえば伝わりやすいですかね?

その物語を聞いた僕が勝手に「何か」を受け取る。

都合のいい解釈かもしれないし、すずさんは別に「僕に何かを受け取って欲しい」って思って話してくれてるわけじゃないかもしれない。

でも、そこで僕は大事な「何か」を受け取るわけです。

きっと、だからこそ、『この世界の片隅に』という作品は僕に突き刺さったんでしょう。

実は、のんさんに会ったことがある僕

詳しい経緯は省きますが、僕はのんさん(当時は能年玲奈)に会ったことがあります。

「会った」といっても、廊下でズボンを履き替えてる途中の僕の姿を不覚にものんさんに目撃させてしまい、その流れで一言二言交わした、というだけなんですが。

のんさんって、テレビのイメージとそっくりそのまま、あのままの方なんですよね。

おっとりというか、のほほんというか。

話し方もあのまんま。

普段から『ありゃりゃ〜』とか、『あちゃ〜』とか、『そうなんねぇ〜』とか言ってそうな感じというんでしょうか。ちなみに件のときは『すっ、しゅみませぇ〜ん……!』という具合でした。かわいかったです。

だからこそ、のんさんという女性は「すずさん」の声の役にぴったりだったんじゃないかな、と。

のんさんはすずさんで、すずさんはのんさんなんじゃないかな、と。

「きっと、すずさんはのんさんみたいな話し方で、のんさんみたいな声で、のんさんみたいな雰囲気をしてるんだろうなぁ」と思っちゃったぐらいです。

僕らはみんな『この世界の片隅に』生きてる

名言風に見出しタイトルつけましたけど、これってつまり、「君も僕も、所詮、この世界の片隅に生きる人なんだよ」って意味です。

「人間みな平等」だなんてよく言いますけど、何をもって平等と言ってるのかさっぱりわからない。

生まれながらに障害を抱えてくる人もいれば、裕福な家に生まれる人もいる。

昨日彼氏にフラれた人もいれば、昨日結婚した人だっている。

人生には「のぼりくだり」があって、ずっと登ってる人もいれば、ずっと下ってる人もいると思うのですよ。

「人生みな平等」に対する僕の勝手な解釈

僕は、「人生みな平等」って言葉をこう解釈してます。

「人生に訪れる生と死はみな平等」

僕の兄は、僕が生まれる前に亡くなってます。生まれて2時間で亡くなってます。

かといって僕は不幸せでもなければ、周りからそう思われたいとも思ってません。

なぜかって、会ったこともなければ、誕生日だって知らない、名前がどういう漢字かも知らないから。

だから、母の痛みも、父のやるせなさも、何一つとしてわかりません。

そういう形で生まれて死んでいった兄が幸せだったのかもわかりません。第一、自分が生まれてきたことさえ理解できてないでしょう。

もっと言えば、僕が兄と呼ぶのさえ違和感がありますし。わけわけめ、五穀米ですし。おすし。

人間、生と死だけは平等。ただ、そういう事実があるだけ。

そこには幸せ、不幸せなんて概念が入る余地もないんですよ。きっと。

世界の片隅に生きるすずさんたち

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

『この世界の片隅に』は戦時中の話ですが、戦争を描いた作品とは少し違います。

「戦争の時代を懸命に生きたすずさん、そして、周りの人たち」の物語、日常、人生。

すずさんはぼぅっとした性格で、なすがまま、流れるままに生きている女性。

昔から絵を描くことが好きで、いつでも紙とペンを持ち歩いてます。

でも、径子さん(義理の姉)の5歳の娘・晴美ちゃんと一緒に道を歩いているときに不幸にも右手を失ってしまうんですよね。

晴美ちゃんも、その際に亡くなってしまう。

径子さんは、これで旦那さんも、晴美ちゃんも、家もなくしてしまったことになるのです。

そもそも、「すずさん」と「径子さん」は反対側にいる人間同士なんですよ。

料理、裁縫、性格も、何から何まで対照的。

だからこそ、「すずさんは径子さんという存在に苦しみもしたけど、救われもした」んじゃないんじゃないでしょうか。

片方にあるものが、片方にはない。片方には当然のことでも、片方にとっては当然じゃない。

だから、ぶつかるし、嫌うし、認められないし、寄り添えるし、手を差し伸べることもできるのではないでしょうか。

すずさんは、右手を失って、晴美ちゃんを亡くして、大好きな絵も描けなくなってしまったわけです。

戦争真っ最中、空でどんぱちやってるときにも「あぁ、こんなとき右手があったらなぁ……」なんて思ってるぐらいですから。

そのぐらい絵が好きなんですよね、すずさんは。そこには、芸術ってもんの”本来の姿”があったと思うのです。

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

僕の居場所はどこにある?

そういった辛い経験からすずさんは広島に帰ろうとするんですけど、このとき径子さんに言われた言葉が結果的にすずさんを救ったのだと思います。

「自分の居場所は自分で決めればいいよ」って。

正しい文言は忘れちゃいましたが、僕が「ハッ」とした場面でもあります。

この言葉がきっかけですずさんは広島に帰ることをやめるんですが、このタイミングで広島には原爆が落とされるんですよね。

そして、8月15日、終戦の玉音放送が流され、すずさんはこれに対して激怒します。

「まだここに5人いる。まだ右手も両足もある」、と。

ここは様々な解釈があるとは思いますが、僕は「まだ私たちの戦いは終わってない」ってことなのかな、と思いました。

単に「勝った、負けた」の話ではないと思うんです。

戦争に勝ったからといって、右手も、晴美ちゃんも戻ってくるわけではないですし、すずさんたちが報われるとも限らない。

これだけ「失ってきた」のです。すずさんは。すずさんたちは。

「いろいろなものを犠牲にしてきたし、苦しい生活にも耐えた。逃げることもやめた。なのに、こうも呆気なく戦争が終わるなんて」

こういった感情が、あのときあの場所で爆発したのだと僕は解釈してます。

この世界は歪んでるから、

「歪んでいるのは私だ。まるで左手で描いた世界のように」

すずさんのこのセリフにもハッとしました。

右手を失い、いろいろなものを奪われていくうちに、「流される生き方をやめた」結果、こういったセリフが出てきたのではないでしょうか。

「お兄ちゃんが死んだらいいと思っていた」という自分の気持ちに気づいたことがきっかけで出てきたセリフなんですが、その”気づき”もすずさんが変わった証拠。

自分で立って、自分で進む。

自分から世界に踏み込んでいくんです。

もとより歪んでる世界に踏み込んでいけば、歪んだ感情が生まれるのは必然。

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

終盤の方に、すずさんの頭を「失った見えない右手」がよしよしするシーンがあります。

僕には、その右手が「偉いね」って言ってるようにも見えました。

悩み、苦しみ、必死で生きてきたすずさんに、「大丈夫だよ」って。「がんばったね」って。

この「見えない右手」は誰しもが持ってる

右手をなくしたすずさんは、これからの人生のすべてを「左手で掴んでいく」んでしょう。きっと。

この右手は、たぶん誰しもが持っているものだと思うのです。

道を選ぶのも自分、決めるのも自分、悩むのも自分、苦しむのも自分。

じゃあ、慰めてくれるのも、認めてくれるのも自分しかいないでしょう。

『泣いてばかりじゃもったいない。塩分がね』と前を向いて歩くすずさんの姿に、僕はそう感じました。

“きっかけ”がないと人間は行動しない

どんなに辛くても、太陽はのぼり、明日はやってきます。

別に「もっと辛い人がいるんだからがんばれよ」って話じゃなくて、「まず自分から」ってことです。

いま幸せだと感じている人は、何が幸せか、いつが幸せか、誰といるのが幸せなのかって考えるべきですし。

反対に、いま辛い状況にある人は、別に他の人の幸せと比べる必要もないし、不幸を隠す必要もないってことをもっと知るべきです。

たとえ、不幸自慢って言われたとしても、自分の中だけに溜め込んでちゃ身がもたないです。

どんな行動にも”きっかけ”は必要。

「伝えたい人がいるときに伝える」

「辛い気持ちを吐き出す」

「何が幸せかを考える」

こういうのって「日常」を過ごしてる中ではなかなかできないです。きっかけがないと。

きっかけがあって、ちょっとでも「今ならできそうだな?」と思ったら、そのときが”行動するべきとき”なんですよ。

『この世界の片隅に』は、そういった“きっかけ”にもなる作品です。

何が普通か、何が幸せか、何が日常なのか。

何が異常で、何が不幸せで、何が非日常なのか。

それがはっきりと描かれている作品。

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

だからこそ、今の自分の状況に置き換えることができて、同時に、「行動のきっかけにもなる」と、僕はそう思うんです。

みんなが笑って暮らせりゃあいいのにねぇ

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

きっと、みんなが笑って暮らせりゃそれが一番いいんでしょう。

でも、「世界人類みんなが—」ってのはたぶん今も、これからも無理。

少なくとも、「自分と自分の周りにいるみんな」が笑って暮らせりゃ、それはとても、とても幸せなことなんでしょうね。

映画のラストでは、すずさんが子供を拾うんですけど、そこで初めて彼女は「母」になるんです。

ぼぅっと生きてきたすずさんが、自分の心を吐き出すようになり、歪んだ世界に踏み込み、やがて「母」になるんです。

それは、「右手を失ったからこその結果」なのかもしれません。あのとき、広島に帰らず、「ここに残る、ここが私の居場所だ」と決めたからなのかもしれません。

今まで絵を描いて吐き出していたものが、右手を失ったことで急に吐き出せなくなり、そこで自分の心と初めて向き合う。

そうして、生きていく。

そうして、この世界の片隅『に』は、この世界の片隅『から』になってくんじゃないでしょうかねぇ。

バイバイ、またね

エンドロールの最後には、「右手」が観客に向かって手を振ってくれるんですが、あれは「一人ひとりが受け取った答えが”正解”」なのかもしれません。

ただの「観てくれてありがとう」ではないです。間違いなく。

僕には、『バイバイ。また道に迷ったらすずさんに会いに来なよ。またね。』って言ってるように見えました。手だけど。ただ手を振ってただけだけど。

そして、その本当の意味は「誰しもが今も持ってて、これからも探していかなきゃいけないもの」なんでしょう。

これ、きっとあれですよ。

すずさんからの宿題ですね。

なんでも使うて暮らし続けにゃならんのですけえ、うちらは。/ 北條すず(旧姓:浦野)

Kindleで漫画も買っちゃいました。まだ上巻しか読んでないですけど、全3巻なんでサクッと読めそう。

視聴後のツイートと『この世界の片隅に』の詳細とか

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© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

公式サイト:全国拡大上映中! 劇場用長編アニメ「この世界の片隅に」公式サイト

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