死に思いを馳せる行為は、食事中、排便に思いを馳せる行為と似ている

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11月8日は特別な日だった。

珍しく、珍しくポエムのような日記を書きます。別に、僕が感傷に浸っているとか、心に闇を抱えているということではなくて、ただ単純に今の心情を文字にして吐き出したいだけ。

ところで、君は食事中に排便のことなんて考えないよね?

僕がTwitterではなく「ブログ」を選ぶ理由

有名人ではない限り“誰かのただの日記”なんてものに需要はない。代わり映えのしない僕の日常をユーモラスに伝えられる自信もないし、誰かを惹きつけるほど秀でた文章力があるというわけでもない。

そもそも、ブログって言葉はweblog (=ウェブ上の記録)の略であって、日々の記録をつけることが本来あるべき姿。
「今日はパンケーキを食べたよ!」とか「お通じ快調!R-1はやっぱり最高だね!」なんて書いてあった方が、ブログらしいのかもしれない。

僕はこういった形式のブログが得意ではありません。だって、箇条書きにすればそれで事足りるでしょう?
それに、こういった”普通の日記”になるとどうしても「である調」になってしまいがちだし、何かと断定口調になってしまうのです。それがちょっとムズ痒い。

  • 今日はあの子と笑い合ってる夢を見た
  • 『地球が静止する日』と『2012』を観た
  • 「君の膵臓をたべたい」を読んだ
  • 11月8日は特別な日だった

……ほら、箇条書きにしちゃえばすぐに終わっちゃう。これなら別にブログじゃなくたってTwitterにだって書ける。
それでも、僕がブログという媒体を選ぶ理由は、やっぱりこのことを誰かに伝えたいからなんだと思うわけですよ。知って欲しいんです。少しでも共有したい。

本当に伝えたいのならもっとわかりやすく噛み砕いて書くべきだとも思うし、「ただ吐き出したい」という理由でひたすら文字を打ち込むだけってのもちょっと感心できませんけど。自分のことですが。

ここが雑記ブログで本当に良かった。もし、このブログが『1ヶ月で絶対に痩せる!赤裸々ダイエット劇場!』みたいな名前だったら、こんな記事は絶対に書けない。
和室にどデカいシャンデリアが飾ってあるぐらいの勢いで相容れない存在になってたはずですから。

『揺れ動く自分を見つめるためにも、人は死について想いを馳せる必要がある』

御察しの通り、今日の僕は家でとことん腐っていました。嫌なことがあったわけでも、家から出たくなかったわけでも、人と会話をしたくなかったわけでもありません。

今日という日は僕にとっても少しだけ特別な日。それにもかかわらず僕がヒッキーハウスになっていた理由は、残念ながらこれといってありません。ただの気分です。

それでも僕はすべてのことに意味を見出してしまいたくなる性格なので、今日という日に何の意味もなかったなどということは決して思いません。事実、今日出会った3つの作品から僕は大事なことを学んだ気がするのです。

「死」は一度しか体験できない

人はいつ死んでしまうかわかりません。

地震が来て死ぬのか、通り魔に刺されて死ぬのか、体や心の病気に殺されるのか、車にひかれて死ぬのか、誰にも知られずに豆腐の角に頭を打って死ぬのか。

とても残念なことに、「死」は人生で一度しか体験することができません。もし体験することができたとしても、その経験をこの世界に残すことはできないのです。ショックです。

臨死体験のようなものはあったとしても、完全に魂が抜け落ちたあとでこちらへ戻ってきた人は「海の上を歩いた男イエス・キリスト」ぐらいしか僕は知りません。超超超激レアなんです。

死後の世界は完全に未知の領域です。宗教によっては、天国や地獄、極楽浄土、輪廻転生などなど、死んだあとの世界を指す言葉も多くありますが、それを見た人は未だかつていません。
だから、怖いんです。何の感覚もなくなるってことが、あまりに突拍子もなくて。想像すらできない。

でも、「死」を意識することで初めて「生」が輝き出すってこともあると思うんですよ。

君は、食事中、排便に思いを馳せることがあるのか?

生きながらにして「死」を意識することはとても難しいことです。

戦争真っ只中の土地で、今日の飯さえマトモに食えるかわからず、いつ訪れるかもわからない空爆に怯えてロクに睡眠さえ取れない状況でもありません。ましてや、余命が宣告されているわけでもありません。

テレビでそういった光景や体験を目にすることがあっても、それを自分に細部まで投影してリアルに死を感じることもまずできません。
それで「死」を感じたとしてもそれは完全な死ではないです。四角い画面に切り取られただけの人生は、ただの写真集であってその人のリアルじゃない。

その人がどんな気持ちで眠りにつき、どんな気持ちで朝を迎え、どんな気持ちで挨拶をし、どんな気持ちで祈り、どんな気持ちで空を仰ぐのか、僕はこれっぽっちもわかりません。
ない頭を必死にヒネって考えたところで、『あぁ、とても辛いん”だろう”なぁ』と思うだけ。

いくら戦争の悲惨さを勉強したところで、いくら抗がん剤治療中の辛さを鮮明に書き綴った本を読んだところで、その人が感じる「死」を僕は感じられない。

だって、食事中に排便のことを考える人はいないでしょう。

明日が来るということを疑ったことのない人間に、どうして「リアルな死」が感じられるでしょうか。まだ自分がどうして生きているのかもわからないのに。

僕が出会った3つの物語

僕が今日出会った作品は、『地球が静止する日』『2012』「君の膵臓をたべたい」の3つ。どれも“命”について考えさせられる物語でした。
特に、「君の膵臓をたべたい」は久々に本を手にしている手が震えましたね。主人公の男の子が僕と似ていたからかもしれませんが。

『地球が静止する日』

ある夜、プリンストン大学で教諭をする地球外生物学者ヘレン・ベンソン博士の自宅に、アメリカ政府のエージェントが突然やってきた。強制的にある非常事態への協力を求められたヘレンは、1年前に他界した夫の連れ子であるジェイコブを隣人に預け、あわただしく公用車に乗り込む。
すでに政府は、軍を総動員出動させ警戒態勢を敷き、町は異様なまでに静まり返っていた。政府がヘレンのほかに、核物理学・天文学・地質学などの権威を招集したのは、木星の外側で観測された「謎の物体」への対策を講じるためだった。小惑星と思われるその物体は、想定外の進路を信じがたい速度で移動し、マンハッタンへと迫っているのだった。
物体が地上に達するはずの瞬間には何も起きず、ただまばゆい光を放つ巨大な球体がセントラルパークへと舞い降りてくる。その一方で、アメリカの軍事衛星が何者かに制御を奪われ、この衛星を経由して国家機密すべてが筒抜けになったことが疑われた。球体を警察と軍隊が包囲し、防護服をきたヘレンらが近づくと、球体の中から一体のヒューマノイド形生命体と、大きなロボット ゴートが姿を現す。動揺した兵士の一人が発砲し、銃弾を受けた生命体はヘレンの目の前で赤い体液を流して昏倒した。その際、生命体を守ろうとしたゴートは周囲の電力を絶ち、人間を昏倒させる音波を放つという恐るべき能力を見せる。

地球が静止する日 – Wikipedia

ストーリーは正直イマイチでしたが、なんとなく描きたいことは伝わってきました。

危機に瀕したときに初めて人類は成長する。

「今度こそ変わるんだ」と口では言っていても、今までの行いや生活を変えることはなかなかに難しいことです。価値観が一転するほど劇的なことがあったとか、精神を病んでしまいそうなほどショッキングなことがあったりしないと人生をガラッと変えることは難しい。

それでも変わろうとする人間には必ず何かが与えられるはず。そうじゃないとやってらんない。いつ宇宙人がやってきて、ドンパチ仕掛けてくるかわからない。

もしそうなったときに自分が正しい選択を出来る自信は正直言ってない。それでも自分の大切な人たちとは最期まで一緒にいたいなぁ。

『2012』

2009年、インドの科学者サトナムは、地球内部が加熱され流動化が進んでいることに気が付き、数年後に地球的規模の地殻変動により大破局が起きることを突き止める。惑星直列が原因で太陽活動が活発化し、コロナが地球を蔽ったため、地球内部がプラズマで加熱されることで、マントルの流動性が増しマントルに浮いている大陸が沈んだり傾き、地殻大変動が起きると予想された。
科学顧問のエイドリアンから世界の終末を伝えられたアメリカ大統領のウィルソンは、イギリス、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、日本、カナダの首脳に事実を報告。先進国は極秘裏にチョーミン計画を実行し、世界各地の歴史的な美術品を後世に残すために、密かに偽物とすり替え運び出し始めた。

2012 (映画) – Wikipedia

地球滅亡を描いた、ディザスター(災害)ムービー。

大規模な地震や地割れで崩壊する都市の様子はもう圧巻。自然の力の前では、人の命は無力だということを思い知らされる作品でした。

「君の膵臓をたべたい」

主人公である「僕」が病院で偶然拾った1冊の「共病文庫」というタイトルの文庫本。
それは「僕」のクラスメイトである山内桜良(やまうち さくら)が綴っていた、秘密の日記帳であり、彼女の余命が膵臓の病気により、もう長くはないことが記されていてた。
「僕」はその本の中身を興味本位で覗いたことにより、身内以外で唯一桜良の病気を知る人物となる。
「山内桜良の死ぬ前にやりたいこと」に付き合うことにより、「僕」、桜良という正反対の性格の2人が、互いに自分の欠けている部分を持っているそれぞれに憧れを持ち、次第に心を通わせていきながら成長していく。そして「僕」は「人を認める人間に、人を愛する人間になること」を決意。桜良は恋人や友人を必要としない僕が初めて関わり合いを持ちたい人に選んでくれたことにより「初めて私自身として必要されている、初めて私が、たった一人の私であると思えた」と感じていく。

君の膵臓をたべたい – Wikipedia

ありがちなストーリーといえばありがちなストーリー。『世界の中心で、愛をさけぶ』や
「四月は君の嘘」が好きな人ならきっと気に入ると思います。

中でも特に印象に残ったセリフがあってですね、とても素敵な考え方だな、と。

違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ

きっと、すべては幾重にも重なった選択の結果。運命や偶然と思うことも多々ありますが、それも自分でその道を選択してきた結果。今、自分の周りにいる人たちとも必然的に出会ったんだ、と思うと嬉しくなると同時に、なんだか素敵な気分になりました。

しかも、この主人公の男の子がなんだか僕に似ている気がして、妙に物語に入り込んでしまいました。境遇とか、考え方とか、行動の取り方とかね。

それでも、やっぱり僕がこの物語から感じ取ったことは「死とは常に隣り合わせ」ってこと。金持ちだとか、人当たりがいいだとか、頭がいいとか、運動ができるとか。そんなこと関係なしに、死はすべての人に臨むってこと。

もし今日が自分の人生最後の日だとしたら

もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?

スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版 – YouTube

アップルの創設者であるスティーブ・ジョブズが、スタンフォード大学の卒業祝賀スピーチで述べた有名な一節。期待、プライド屈辱、挫折、恐怖、etcetc……。こういったものは死んだ瞬間にきれいサッパリ消え去っていくもの。

自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版 – YouTube

平和な世界で「自分が死と常に隣り合わせ」にいるということを実感することは非常に難しいですが、今後の人生において必要なことです。

言葉の解釈の仕方は人それぞれ違うでしょうが、僕は「自分の心のあり方は、果たして人生最後の日にふさわしいかどうか」ってことなんじゃないかと思ってます。
それを日々問い続けて、心をチューニングしていくことこそ「Do」、つまり行動を変えていくことなのかな、と。それでどうしようもないときは何かを変えるしかないですもん。

真摯さ。誠実さ。綺麗事かもしれないですが、そういったところなんじゃないかなぁ、と。

だから、こんな記事タイトルをつけてしまう僕はこれ以上ないぐらい誠実だということです。えぇ。「死に思いを馳せる行為は、食事中、排便に思いを馳せる行為と似ている」。

別にカレー食べてるときにうっうーのことを考えろ、って話じゃありません。カレーを食べながらうっうーのことを考える人がいないように、生きながらにして死を意識することはとても難しい、ということ。そして、その行為は重要な意味を持つということ。

きっと、そのとき自分が取る行動は至ってシンプル。すぐに行動できるように常日頃から気をつけていないとね。

あ、ちなみに小説『君の膵臓をたべたい』は2017年夏ごろに実写映画化予定。主演は北川景子&小栗旬。うーん、楽しみですねぇ。

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