「認識できないものは存在しない」ということをラーメンの話から考える

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「認識できないものは存在しない」と言っても、ある種の正解なのかもしれません。

今回はそんな話を「ラーメン屋での出来事」として考えてみたいと思います。

例えば、ラーメン。

ここはラーメン屋。
自分が頼んだラーメンが運ばれてきたかと思うと、おや、店員の親指がどっぷりとスープに浸かっているではありませんか。

もし、その光景を”目撃していたのならば”それは「親指の入ったラーメン」
もし、その光景を”目撃していないのならば”それは「ただのラーメン」です。

しかし、「親指が入った」ということは、何一つ間違いのない「事実」なわけです。

しかし、それを観測していない人からしてみれば、それは「親指が入った」か「親指が入っていない」かに関わらず「ただのラーメン」です。

並んでラーメンを一緒に食べた友人ですら、その店員さんですら、「親指が入ったこと」に気付いていなかったとしたら、一体何が”それ”を証明するのでしょうか。

認識することができないものを、「存在している」と言えるのか?

親指を突っ込んでいた店員さんに「あなたの親指はあのときスープに浸かっていましたね?」という質問でウソ発見器をかけたところで、店員さんがそのことに気づいていなければ身の潔白が証明されるだけです。

スープのエキスを科学的に調べて、店員さんのDNAだか、親指エキスだかを検出できればそれは分かるとは思うのですが。
いや、何せ「親指が入った」とも思っていない時点でそこまで調べるということはあり得ません。

つまり、「親指が入った」という事実は実質的に認識されることはない、ということ。

果たして、誰も認識することができないものを「存在するもの」として考えてもいいのでしょうか。

死んだら存在はどうなる?

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もしも、「誰も認識することができないものを”存在しない”」と考えるとすれば、自分が死んでしまったとき、この世界は認識できなくなるわけです。
すなわち、「自分の死後にはこの世界の存在ごと消えてしまうのか」ということにもなってきます。

この場合、「いやいや、自分が死んだら自分が死んだことさえ認識できないですから」となり、世界は存在し続けるのでしょうか。
しかし、それは同時に「結局それって世界を認識できていないよね」なんてことにもなってしまうわけで。

むしろ、死んだことがないので死後の世界さえあるのかもわかりません。
もしかしたら死後の世界があり、この世界を認識できるとするならばそれは存在するということになるのではないか、とも思うわけですね。

認識して初めて世界は存在することができるのだとしたら

そう。もしかしたら今、この現時点では自分の背後に何もないのかもしれません。
あらゆる物体が存在せず、ただ真っ黒で何もない空間が延々と広がっているのかもしれません。

自分が振り返ること、もしくは監視カメラのようなもの、そういった何かしらの方法で背後を認識することで、初めて物体が形成され、初めて”存在を確立させているのかも”しれません。

まとめ

「認識していない、できていない」ということは、こういった様々な可能性があるということです。
つまり、実はかなり不安定な状態にあるものなのではないでしょうか。

確かに「認識しない対象は存在しない」のかもしれません。
厳密に言えば、それは間違いのないことなのかもしれません。

ですが、そんなはずはない。
認識しないから、認識できないから、本当に 「ない」 のではありません。

長く会っていない友人や家族、元恋人、そんな人たちも自分が見てないところでちゃんとそれぞれの体験をしているはず。

ということは、「認識できないものは存在しない」という考えは正しくないということなのでしょうか。それも少し違いますよね。

何はともあれ、指がガッツリと入っていたラーメンを食べるのには勇気がいります。

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