みんな、バレンタインデーだよ!愛を持ってブログを書くということ

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やぁやぁ。「近頃何してるの?リゾバ先で凍死でもしたの?」なんて言われる僕ですが、ちゃんと生きてます。

最近めっきりブログを書かなくなって、いろいろと億劫になってしまっていたのです。

つまり、雑記ブロガー七不思議の一つ、「え?これってブログのネタにしていいの?病」を発症してしまったのですよ。

本来、雑記ブログというものは、ジャンルにこだわらず、枠にとらわれずに日常を面白おかしく切り取って文章でぶん殴るってスタイルだと僕は考えてます。

そんな雑記ブロガーを自称する僕がブログを書かないというのは、もはや愚の骨頂。味噌のない味噌汁のようなもの。弾まないスーパーボールのようなもの。

おそらく、このブログを見てくれている人にとっては僕がどのような心境で記事を書こうが、どんなことを考えて仏頂面でキーボードを叩きまくっているのかはどうでもいいこと。

でもね、知っていて欲しいんです。

自分が何をしたいのかわからなくなったときにどのように行動すべきなのか、を。道に迷ったときにどのような選択をすべきなのか、を。

そして、愛を持ってブログを書くということを。

みんな、バレンタインデーだよ!

僕にとって書くという行為は宗教であり、神である

今の僕はいわば迷える子羊。灯台を見失った船。羽を折られた天使。骨のないビニール傘のような存在。

少しネガティブすぎる表現なのかもしれませんが、この状況から察するに、これが「スランプ」というやつなのかもしれません。

現在僕は、自分語りと言われればそれまでの「ブログ」という媒体を使って、自分が持つ自己治癒能力を最大限に発揮しているわけなのです。

実際、「なんだか調子が悪いなぁ、考えがまとまらないなぁ」ってときには、いつもブログが救ってくれました。

僕自身が病気を発見し、僕自身が身体に溜まった毒素を吐き出し、そして、僕自身が綴った文章で僕の中にある狂った歯車をいつも調律チューニングしてきたのです。

僕にとっての心の手術オペは「ブログを書くこと」だったのです。

しかし、奇しくも、心の傷の治療方法にブログを選んでしまったばかりに、傷を産むのもまたブログになってしまったというわけ。

ブログで悩み、ブログで傷つき、ブログで治療し、ブログに救われる。

一見、終わりの見えない「迷宮壁-ラビリンス・ウォール-」のようにも思えますが、決してそんなことはないです。

僕が考える雑記ブロガーというものは実はこれなんです。

特にブロガーという呼び名にこだわりがあるわけではありませんが、とにかく、僕のように文章を書くことで自分を治療しているような人はこのサイクルがデフォルト。

スランプと呼べるほど文章を書いているわけでもなく、それが仕事になっているわけでもない。書きたいときに書いて、書きたくないときには書かない。

自由奔放、勝手気まま自己中心的スペクタクル。

「書くという行為が僕自身を救ってくれる」と知っている

「書きたくなくて書かない」のと、「書きたいのに書けない」のと、「書きたいのに書かない」では、その言葉が持つ意味合いはまるっきり違ってきます。

この中でも特に重症なのが、書きたいのに書けないという症状。つまり、今の僕ということです。

正直、書くとか、書かないとか、書けないとか、書きたくないとか、そういうのはどうだっていい。実際、こうして「ブログが書けない」ってことで記事を書いてるわけだしいいじゃないか、と。

書けなくてもそれをネタにして書く、書きたくなくてもいつか書きたくなるからその時を待つ、書かないなら書かないなりに他に面白いことを見つける。

いくらでも選択肢はあります。書く、という選択肢をなしにしても、他にもっともっとたくさんの選択肢はあるわけです。

それでもなお僕が書くという行為に執着する理由は、「書くという行為が僕自身を救ってくれると知っているから」なのです。

まだ起きていないことをさも今見てきたかのように話すのはどうにもアホらしいですが、実際そうだからしょうがない。

僕は、僕が文章を書くことで自分自身が救われることを知っているし、探している問いの答えが出ることも知っている。

迷ったときには書けばいいし、何を書いていいかわからないときも書けば自ずと道は開ける。

どんなことでも、どんなジャンルでも、どんな願いでも、書くことですべては現実となり、すべてはいい方向へ進み出す。

そう、「僕にとって書くという行為は宗教であり、神」なのです。

こんなことを言うと近年稀に見る電波野郎だと思われそうなのですが、まぁ、たまには極端な物言いをしたってバチは当たらないでしょう。

こんな風に言いたいことや思っていることを話そうとしているだけなのに、本題に入る前のエピローグ部分で2,000字ほど余裕でズバッと越しちゃうほど、書くことに執着しているわけです。書くことを欲しているのです。

いつも驚くんですよ。夢中でキーボードを叩き、ふと我にかえると目のまでのディスプレイにアホみたいな量の文章がだぁっ、と書いてある。

そんなときにはいつも、「あぁ、これだけ僕の中に膿が溜まっていたんだな、ふむふむ」と、妙な高揚感、幸福感、興奮を覚えるのです。

このような掃き溜めのような文章は、いわばゴミ箱です。僕の脳みそから出てきたアカです。

「こんなものを好き好んで見たいという変態は一体どれほど存在するのか?」「需要はあるのか?」「誰かが救われるのか?」といつも自問自答しながら、記事公開ボタンを押す手がいつも中を彷徨い歩くのです。

別に、やれアクセス数だ、やれ収益だ、やれブクマだ、って考えながら記事を書いていくのもつまらないわけではないです。

目の前にあるカウンターの数字がピピピっと上がっていく感覚はある種のゲームのようで面白いですからね。

でも、それを、それだけを追い求めていくのは正直つまらないです。何がつまらないかって、自分自身が楽しくないんです。

誰だってあるでしょう。今まで面白かったものが、ある日唐突に冷めてしまうことが。

突然やってくる倦怠期。「どうして?」よりも「どう乗り越えるか?」が重要

倦怠期。それは突然やってくる自然災害のようなもの。

いつ来るかわからないし、どのような形でやってくるかわからない。

無力な僕らができることといえば、その被害を最小限に抑え、どれだけ早く今まで通りのポテンシャルにまで復帰できるか、ってこと。

ちょっとした傷ならともかく、倦怠期ってのは目に見える傷じゃないから対処が難しい。もはや、傷というよりかは無関心に近いものだと思うのです。

今の時期なら分かる方も多いのではないでしょうか。

世の中はバレンタインデーなどというお菓子メーカーの策略にわざとハマり、それに関連する雑誌やお菓子、その他ネットにはびこるどうでもいい知識をインプットし、どうでもいい相手に向かって、どうでもいいチョコらしき物体を差し出す。

「別にあげたくもないけどなぁ」

「別に好きじゃないけどなぁ」

「本当はチョコなんて作りたくないのになぁ」

「なんで女子がチョコ作らなアカンねん」

「あのハゲ、いつかゼッテー土下座さす」

バレンタインのチョコといえば、一度ドロドロに熱し、型に注ぎ込み、冷ましてから作りますよね。

結局はそれです。

熱せばいつかは冷えるときがきます。

いびつな型に入れればいびつな形になりますし、綺麗な型に入れれば綺麗に仕上がります。甘くても、苦くても、形だけは整います。

いくら形が整っていても味がいまいちなら台無し。味と形、どちらも高いレベルに達していてこそ真のチョコレートと呼べるものなのです。

男性が求めているのは「プロの味」じゃない。「愛」だ

果たして、男性が求めているものは「プロの味」を持つ真のチョコレートなのでしょうか?

いいえ、違います。

ただクオリティの高いだけのチョコレートはお金を出せば手に入ります。

どこぞの素人女子大生が見よう見まねで作っただけのチョコレートは、決してプロが作ったチョコレートには勝てないのです。

では、世の男性がチョコレートに求めているものとは一体何なのでしょうか?

勘の良い方ならもう分かっているはずです。

そう、それは「」です。

死と神に並ぶ、科学では解明することのできない永遠のテーマ。愛。

愛という概念や感情は知っていても、そこから発せられるパワーの解明は未だなされていません。

「なぜ愛がどんな力にも勝るのか?」ってことは数字で表すことができないものなのです。

雑記とは愛。愛とは雑記。つまり、ラブディスティニー!

愛とは、許すことであり、認めること。そして、見返りを求めないこと。誰にでも無償で提供し、愛を拒まないこと。

すべての人を自分と同じように愛し、自分自身をも愛すること。

愛、愛、愛。

愛に満ち溢れた世界には、次々に新しい愛が生まれ、心を伝って愛が移動する。愛が通った道には愛のカケラという名の種が撒かれ、そこからまた新しい愛が芽を出す。

素晴らしいじゃないですか、愛ってやつぁ。

どんなものにでも愛はあるし、どんなものにでも愛は注がなきゃいけない。

つまり、雑記と呼ばれるノンジャンルの駄文でも、愛は注ぐべきだし、愛を持って接しなきゃいけないってことです。

嗚呼、バレンタイン。君の名はバレンタイン。一挙手一投足のバレンタイン。

みんな、バレンタインデーだよ!

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